古いブログから ~東日本大震災、体験記①

March 10, 2016

2011/07/11 23:29


ふと思い出すとあの不安と恐怖にぐぐぐっと飲み込まれる。思い出したくない気持ちと、一生忘れてはいけないという気持ちが混じりあう。文章に残しておこうと思う。慎重に言葉を選ぶしかし、どんな言葉も、私の体が体験した事実を正確にはとらえられない。言葉となった瞬間に色褪せてしまう。気がする。うまく吐き出せるまで、少しの間、脳の中にしまっておこう。そうやって時間が過ぎていった。4ヶ月がたった今、そろそろ脳裏に焼きついた光景を、震える心境を、真剣に言葉に置き換えてみようと思う。記憶が風化してしまう前に。

3月8日(火)
そろばん塾の学院長が亡くなったという連絡をもらった。学院長は、宮城県にあるそろばん教室の中でも大きい珠算学院を作った人で、私が計算高かったり(?)、そろばん世界大会で2位になったり、負けず嫌いな性格だったりするのは、学院長の教えからなのである。
60歳過ぎても週に何回かは教室に顔をだし、「よーい、はじめ!」と大きな声で言って生徒を怖がらせ、姿勢が悪いと私の背中に定規をぐさっとさし、「ちゃんと練習しろよー」と手を振って帰っていく。そんな元気なイメージしかない学院長がガンを患っていたなんて想像もしなかった。お葬式は翌日9日、告別式は10日に仙台で行われるので、もし帰省できるならいってあげてほしいと連絡があった。

3月9日(水)
18時から家庭教師のアルバイトがあるため、今日は帰省できない。家庭教師先に電話をして、授業を別の日に振り替えてもらうことも不可能ではないが、当日キャンセルはしたくなかった。仙台に帰るとしたら明日の午前中新幹線で向かい、そのまま告別式に直行。12日(土)には東京で出席しなければならない授業があるから実家でもそんなにゆっくりはできない。帰るか帰らないか悩みに悩んだ挙句、お世話になった学院長にお別れをちゃんと言おうを決心。2日分の荷造りをする。

3月10日(木)
お昼頃着の新幹線で仙台へ。はやては1時間40分で運んでくれるのであっという間に到着する。母も学院長の告別式に出席するということで仙台駅で合流し、その足で駅近のセレモニーホールへ。告別式はあっという間に終わってしまった。小学生の頃に肩を並べてそろばんを練習した仲間や、そろばん塾の先生らと軽く話をした。
その後、買うものがあって、母と共に車でアウトレットモールに向かった。仙台新港に2,3年前にできたわりと新しいアウトレットモールである。仙台駅から車でおよそ20分で着く場所なのだが、モールの裏にはすぐ海が広がっている。次の日、だいたい同じ位の時間帯、このアウトレットモールは地震による津波に襲われ、車という車が全て流されてしまうのだが、そんなことは全く想像もできなかった。


3月11日(金)
11時頃ゆっくり起床。父は既に仕事に行っていた。私は夜の新幹線で東京に戻るつもりだったので、今回もバイバイを言えずじまいである。
母とゆっくり朝食兼昼食をとり、テレビを見ながらダラダラ過ごしていた。特に予定もないので、夜まで実家から出るつもりはなかったのだが、母が新幹線の切符を買っておいたほうがいいのではないかと言ったので、最寄のJRの駅まで車で切符を買いにいくことにした。

14:40頃
母と一緒に、財布と携帯だけを持って家を出る。実家は大型マンションの15階。1階までエレベーターで降り、隣接している3階建駐車場の3階に置いている車を取りに行く。

14:45
母が運転し、私は助手席に乗って出発。

14:46
マンション内の敷地から公道に出るため、スピードを落とす。ちょうどその時、母の携帯から聞いたこともないような音がした。
「何の音?」私は言う。車は右折して公道に出る。
「なんだ?あ、地震速報ださ!」
そう言っているうちに、地面が大きく揺れ、ゴーっというすさまじい音が響いた。
地面が波打っていた。信号機が波に乗って伸びたり縮んだりしているように見えた。
「うわ!やばい!車倒れそう。もう降りる!止めて!」
見上げるとマンションが大きくゆらゆら揺れ、真ん中の7階くらいでぽきっと折れそうだった。
「やばいよ、降りる」
私はパニック状態だった。こんな揺れは初めてだった。道路にひびが入り大きく割れて隙間に落ちていくのかもしれない、と思った。地球はこうやって終わるのかもしれない、とも思った。すぐに信号が消えた。50メートルほど先には踏み切りがあったのだが、車が進むべきか止まるべきか悩んでいた。コミュニティセンターから外に飛び出してきたおばさん達がフェンスにつかまっていた。おばさん達の後ろには、コミュニティセンターの大きな窓がきしんで音を立てていた。一軒家から若い女性が出てきたが、立っていられず玄関のドアにしがみついていた。まるで家が倒れてくるのを押さえているようだった。車のフロントガラス越しに見たその光景は、今でもスローモーションまま目の奥に焼きついている。
怖がっている私に対し、母は冷静だった。
「今車止まれるから。一緒にそこの広場に走るよ」
そう言って、母は車を道の真ん中に止めエンジンを切った。二人で広場に走った。
そこは、正確には広場ではなく整備されていない月極駐車場だった。広場にはすでにおじさんが一人、トラックから降りて逃げてきていて、私たちが走っていくと、
「こっちさこい!電柱たおれてくっからこっちさこい」
と言って広場の真ん中のほうへ私たちを手招きした。
広場の真ん中で3人肩を寄せ合ってしゃがみこんで空を見上げていた。おそらくサギであろう、全身が真っ白の大きな鳥が6,7羽、列を成して飛んでいった。怖さのあまり涙が頬を落ちていった。「大丈夫だ。ここにいれば安全だ」
とおじさんが私の肩に手を置いた。

呆然としている間に何度も何度も大きな揺れがきた。自然の力を目の当たりにし、人間はなんて無力なのだろうと思った。地球を覆う薄っぺらい地殻の上に高度な文明を築き、人間はいったい何がしたいのだろう。地球が怒っている。我々に警告している。そうだとして、一体どうすればいいのだろう。

15:00
携帯電話がまったくつながらない。強い地震が来たのは分かった。でも一体どこが震源地でどんな状態なのか。情報がほしくなった。電話はつながらないが、インターネットは読み込みに時間はかかるがかろうじて生きていた。携帯で調べていると、東京にいる彼からTwitterでメッセージが送られてきた。「無事なら連絡くれ」。その時初めて、Twitterが使えるのだと気づいた。Twitterで全国のつぶやきを見た。地震の震源地。マグにチュード。そこには欲しい情報のほとんどが載っていた。大津波警報が出ていることをTwitterで知った。

【TVが見れない方へ拡散希望】8メートル以上の大津波警報が出ているので今すぐ避難を!

まずいことになっている、と理解した。私たちが住んでいる場所は、山側ではないけれども海からはかなり離れているので、津波が到達するわけがないと思った。予想どおり津波は来なかった。しかし、車で10分ほど走れば行ける近くの町まで津波は来た。「まさか来ないだろう」と避難しなかった人たちがたくさん波にのまれたことを後で知った。

15:15
避難した駐車場の隣にサンクスがあった。店の中は酒の瓶が割れ、商品が床に暴れ落ちていた。母が道の真ん中に停めた車をサンクスの駐車場に移動した。すでに何人かが列を作り、食料を買っていた。私たちも、そこでパンを3つ、ペットボトルの水を2本買った。停電しているのでレジは使えず、学生らしいアルバイトの子たちが電卓を打ち計算していた。

15:30
家に戻りたかったが、余震がおさまるまでは広場にいることにした。しかし余震がいつおさまるのか、全く見当もつかなかった。広場でしゃがみこんでると、一台の車が入ってきて停まった。知らないおばさんが降りてきて、「怖かったねー」と言って私たちのところにやってきた。話していると、同じマンションの人だと分かった。「マンション折れるかと思って」「あんな大きいマンションが倒れたらえらい迷惑だよね」「でもまあ倒れなかったから。でも中はぐちゃぐちゃださね。熱帯魚の鉢の隣にミッキーのお人形置いてきたのよ。もうひどいことになってるわ。昨日ミッキー動かしたのよ。おとといまでは別のとこに置いてたのに。ほら、おとといまで結構地震あったじゃない?だから別の場所に置いてたのに、昨日ミッキー戻しちゃったから、絶対水かぶってぐちゃぐちゃだわ」
死んだ熱帯魚が顔中にへばりついたミッキーを想像して本当に悲しくなった。

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