豆電球でありたい、その意味
今年は大きな変化がありました。
目に見える部分でも、目に見えない部分でも。
特に後者の変化が、私を生かしてくれました。
感情の波、がまさに津波のように、ざーーーっとひいてざーーーーと押し寄せて。そんな毎日でした。浮き沈みの日々の中で、こんなこと言うと、若造のくせによく言うよと思われるかもしれないけど、
「愛」というものを感じられるようになった。
心臓の壁の成分が変わったような感覚。
悲しみを入れた瓶、寂しさの瓶、不安の瓶、あきらめの瓶...
両手に抱えて、鞄にもいっぱい入ってて、重くて重くて途方にて暮れていた。
でも、気づいた。
不変のものが、すぐそこにあって、いつでも優しく包んでくれること。
かまえたり、偽ったり、着飾ったりせず、だばーーんと飛び込める、ふかふかの落ち葉のカーペットのようなもの。 それは、音楽。
それは、仲間や家族。フルサトだったり、新しい出会いだったり、それらの集合体。
ああ、これが愛なんだなあと気づけたのでした。
昔はね、怒り、後悔、くやしさ、寂しさ、悲しみ、不安、ネガティブの感情を無理矢理燃やして、Fuelにしていた。ネガティブ燃料。
かれらは、一気に燃え上がって、一瞬ものすごい赤い光を発して、世界を照らすんだけど、何も残してくれない。心に残るものは、空虚な残り跡だけ。
今年、かれらを直接燃やさなくなった。
そうか、私の悲しみはこんな色してるんだなあ、寂しさってこんな風に増えるんだなあと、一つ一つ手に取ってあげれるようになった。少し可愛いとさえ思える時もあった。
そんで、ネガティブを抱えたまま、優しさのカーペットに寝っ転がれるようになった。
染み込んでいく感じ。
溶けていく感じ。
その時に発される光が、豆電球のような弱弱しくも優しいオレンジ。
小さな力だけど、確かに、私を生かしてくれる。
もしかしたら、私が抱えるネガティブたちの総量は増えているのかもしれない。でも優しさのカーペットはね圧倒的な深さで、受け入れてくれるのです。甘えちゃいけないんだけど、ここんとこ甘えすぎなんだけど、その偉大さに気づけたことが嬉しくて。幸せだなって思えるようになった。自慢したい。すごい自慢したい。
それでも、今も、己の弱さゆえ、流されるように生きてしまっているけど、
痛みとか寂しさを、そういうものをすんなり受け入れられるようになった。
ごちゃごちゃで不安で絡まってる自分を、ちょっとだけ愛せるようになったと思う。
まず自分を愛したい。
そして愛をあげれるようになりたい。
まだまだだけどね、変わっていくよ、私。
誰かの豆電球でありたい、の意味は、そういうこと。